ポスト近代の新しい働き方を考える~岡田暁生『音楽の危機』を通じて

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【目次】

1.はじめに

2.『音楽の危機』はどのような本か

3.過去の音楽の形式から時代を読み解く

 3−1.ベートーヴェンによる勝利宣言型の音楽

 3−2.ラヴェルによるサドンデス型の音楽

4.現代の音楽の形式から時代を読み解く

5.現代音楽から見える新しい生活

6.おわりに

 

1.はじめに

新型コロナウイルスの流行に伴い、新しい生活様式へのシフトが加速しています。私たち会社員の生活も例外ではなく、テレワークを行う機会が増加し、慣れない自宅での仕事やWEBを通じた打ち合わせが増えています。このような変化は今後どのように展開していくのでしょうか。

その未来を読み解くにあたり、私たちにヒントを与えてくれる本があります。京都大学教授の音楽学者、岡田暁生先生の『音楽の危機』です。近代の音楽はコンサートホールという皆が集まる公共の場所で行われ、楽譜と指揮者のコントロールに従い時間通りに行われます。しかし、岡田はこのふたつの音楽の特徴が、コロナや現代における生活容態の変化に伴い、進化を強いられていると論じています。皆が集まり、時間通りに物事が進んでいく場所。これは私たちが業務を遂行している会社の特徴と同じです。

『音楽の危機』にて論じられる音楽の変化を参考に、私たちの営みの重要な部分を占める働き方がどのように変化していくのでしょうか?その変化について考察してみたいと思います。

 

2.『音楽の危機』はどのような本か

「先の見えない現代進行形の状況の中で、それを書いておくことに意味がある」という著者の言葉の通り『音楽の危機』の大部分は、まさにコロナ禍が始まったばかりの緊急事態宣言の最中に執筆されました。私たちが日常に戻るなかで忘れてしまうであろう思考が、あえて取り上げられ書き残されており、「記録」という側面から見ても貴重な書籍です。

この本にて主に論じられていることは、音楽と近代社会との関係です。音楽が社会のなかで成立している以上は、その当時の空気感の影響を受けているのはもちろんのこと、時に未来に起こるできことを予知していえることもあります。

ここでは、近代社会の代表的な音楽であるベートーヴェンの『交響曲第九番』、いわゆる「第九」を中心に論じています。それは私たちが生きる近代のあり方をよく表しているからです。

ところで、「近代」とはどのような時代でしょうか。近代の辞書的な意味は、現代に最も近い時代区分です。主にフランス革命などの市民革命以降、また産業革命以降の資本主義の台頭し始めた時代を指し、第二次世界大戦をもって近代は終了し、現代が始まったと言われています。

近代と現代は、辞書的には明確に区分されていますが、実際のところ私たちは、市民革命で誕生した民主主義の世の中を生きていますし、資本主義の中で経済活動を行なっており、私たちは近代の延長としての現代を生きていると言えます。

しかし、もちろん近代で生まれたシステムの中で不便さを感じています。民主主義を採用していると言えますが、私たちの民意が政治に反映されずもどかしさを覚え、資本主義が生み出す貧富の格差に私たちは喘いでいるのです。私たちはこの「近代」から抜け出す必要性に迫れています。

 

3.過去の音楽の形式から時代を読み解く

音楽の危機においては、中世からベートーヴェンの近代の始まり、そして、ラヴェルが曲を発表していた近代の後期、さらに現代音楽の台頭までの音楽史を網羅しながら議論を展開しています。この論考が非常に特徴的な点は、音楽の終わり方について取り上げていることです。

私たちは音楽の始まりについては明確に意識していますが、音楽の終わり方についてはそれほど意識していません。しかし、音楽の終わりは曲が終了し、私たちが社会生活へと戻っていく瞬間を意味しており、その部分が最も世の中の空気感を表していると言えるのではないでしょうか?

それでは、各時代の音楽がどのように終わるかを整理していきましょう。

 

3−1.ベートーヴェンによる勝利宣言型の音楽

まず、最初に第九が作られた時代から整理していきましょう。第九が作られた1824年は、市民革命と産業革命という二つの大きな変革の時代でした。第九はそれら二つの革命の理念を、内容的にも、また形式的にも表現しています。

第九の第四楽章で歌われる歓喜の歌には、「物乞いは君主らの兄弟となる」という歌詞があります。これは市民革命により、王政が打破され、人民の平等が実現された理想的な状態を歌い上げます。そして、「抱き合え。幾百万の人々よ」と歌い上げることで、社会全体が一丸となり、明るい未来へ進むイメージを加速させるのです。

また、演奏形式という観点では、第九の演奏のされ方は、まさに産業革命期の工場を模したものとなっています。『音楽の危機』においては、トフラーという未来学者の提唱する「工場的原則」という概念が登場します。工場の目的は、あらゆる工程を極限まで効率化することで、より多くの工業製品を生み出すことにあります。

そのために、工場という空間に労働者を集め、各人の職務分担がしかりとなされ、しっかり分けられた工程に沿って、計画的に物事が進みます。トフラーによれば、このような原則で近代のあらゆる生活様式が進んでいると論じています。

その代表的な例として挙げられるのが、オーケストラです。工場に労働者を集めるようにし、プレイヤーと観客をコンサートホールへ集合させます。プレイヤーが自身の専門職能である楽器を担当し、時間管理が徹底されたスコアに添って、計画的に音楽が演奏されるのです。

特に第九が必要とするオーケストラの人数は非常に、多く同時代的に最も「工場的原則」を反映した楽曲であるといます。

 

このように楽曲内容的にも、演奏形式的にも近代の「市民革命/産業革命」を体現した第九は、最高潮の盛り上がりを見せて終わりを迎えます。それは、最終的に迎える勝利を高らかに祝福するような終わり方です。市民革命と産業革命の成功が、将来的に約束されたかのようです。楽曲の終わりには、聴衆たち割れんばかりの拍手をし、熱に浮かされたような自身の生活(それは革命により成功が約束された世界)へと戻っていくのです。

 

3−2.ラヴェルによるサドンデス型の音楽

このような人類の進歩に疑いを抱かない発想は、現代の人間の心にも共通しています。多くの社会制度が「右肩上がりの成長」を元に形成されていたり、経済界の少なくない人々が、ポスト・コロナの経済のV字回復を信じていたりします。

ただ、一方で現代社会に生きる我々は、「永遠の成長」というモデルが期待できないこという感覚を共有しているでしょう。この進歩史観に対する批判的な意識は、近代という時代のなかでも体感されていたもののようです。

 

それらをよく表すのは、テクノロジーの進展に対する不安です。産業革命の進展は、同時にテクノロジーの発展でもありました。テクノロジーの発展は、産業社会に豊かな富をもたらすと同時に、様々な公害などの副作用をもたらします。近代の半ばに恐れられたテクノロジーに伴う悲劇のひとつは、鉄道事故です。19世紀になると蒸気機関全盛となり、鉄道が世界中に張り巡らされることになります。そこで、人類は全く新しい災害としての鉄道事故を体験します。猛スピードで走る鉄道の脱線に伴う事故は、その鉄道を利用する人に致死的な自体を招くのです。

最初に鉄道事故として現れた、テクノロジーによってもたらされる致死的な事態は、さらにその規模を大きくしていきます。第一次世界大戦期に発明された毒ガス、第二次世界大戦期の原爆が良い例でしょう。特に核戦争の恐怖は、私たちの社会が何の前触れもなく、突然終結してしまうのではないかという恐怖をもたらし、冷戦期はこの感覚が世界全体を支配していました。

また、テクノロジーの発展はそれ自体の危険性ではなく、我々を取り巻く環境自体の危険も発見することになります。地球温暖化の深刻化、巨大火山の破局的噴火など、私たちの社会を破滅に追い込みかねない危機を容赦なく暴き出します。そのなかのひとつとして、この度のようなパンデミックがあげられるでしょう。このように私たちの命が、そして社会全体がいつ終わるとも知れない予兆をテクノロジーはもたらしたのです。

音楽もこの時代の空気を鋭敏に読み取ります。突如として終わりを迎える「サドンデス型」ともいう楽曲が流行を見せるのです。サドンデスの名の通り、これらの音楽は突然終わります。例えば、ラヴェルの『ボレロ』は猛烈なスピードの技巧を繰り出した後に、あたかも脱線したかのように唐突に終了。加速の果てに、唐突に投げ出される感覚は、まさにテクノロジーによってもたらされる「突然の死」です。この時点の音楽には、産業革命に伴う技術的な進歩をナイーブに信じる第九的な感覚は見られません。

 

4.現代の音楽の形式から時代を読み解く

前の章においては、近代期の音楽から見える時代の特徴を読み解いてきました。それでは、現代における音楽にはどのような傾向が見られ、どのような時代の空気を反映しているといえるでしょうか。

 

岡田は現代の音楽の特徴を「ループ型」と名付けます。これは、ポピュラー音楽であれば、歌手が全てのコーラスを歌い終わった後も、伴奏楽器がメロディの印象的な部分をずっとループさせています。

これの起源を、岡田はスイング時代のジャズに見出します。例えば、ジャズはダンスホールで演奏される場合、その終わりを演奏者が決めることができません。ホールの客たちが、まだ踊りを続けたがっている場合は、演奏を続ける必要があります。その場合も楽曲の定型的な短いコードを繰り返し、適当な頃合いを見計って終わります。このような明確な終わりのない音楽を指して、岡田は「ループ型」と呼んでいるのです。

このような定型型の楽曲が、現代音楽のメインストリームをなしています。これらの思想を最もよく体現したのが、ミニマル・ミュージックというジャンルです。ミニマル・ミュージックはリズム的にも音程的にも非常に短いフレーズが繰り返され、ひたすらエンドレスに続きます。それらはクレッシェンドやでクレッシェンドが繰り返されるものの、劇的な展開を見せることなく、延々と演奏されます。

このような反復音楽は、現代社会に深く浸透しています。例えば、カフェにおける音楽も、各々の時間を邪魔しないために、ベートーヴェンの劇的な音楽ではなく、いつの間にか終わり、新たに別な曲が始まるような、単調なものが多用されています。また、電話がかかって来る度に、または電車がくる度に鳴り響く、着メロや駅メロもループ型の音楽といっていいでしょう。

 

しかし、現代の生活に深く入り込んでいるとはいえ、ミニマル・ミュージック的な音楽は前衛の域に留まっています。私たちが音楽と言われた際にイメージする音楽は、楽曲のテンションが最高潮になってフィナーレを迎える、ベートーヴェンの第九的なそれです。つまり、私たちは第九が体現する「市民革命/産業革命」の夢を生きています。

確かに、私たちの会社での生活は、「工場的原則」に縛られています。会社にそれぞれの職能を持った労働者が集合し、決められた業務時間に、きちんと計画された業務プロセスに従って生活をしています。

ただ、この近代的な生活を続けることが、この度の新型コロナウイルスの影響で不可能になってしまいました。私たちの生活は「新しい生活様式」への変化を迫られています。その生活様式が、どのようなものになるのか?「工場的原則」からどのように離れていくのか、まだ誰も知りません。

その未来を予測するヒントとして、現代の音楽としての「ループ型」の音楽を見てみましょう。ループ型の音楽が物語ることから、未来の生活様式がどのようになるのかを推察していくのです

 

5.現代音楽から見える新しい生活

近代の音楽が明確に「終わる」音楽だとすれば、現代の音楽は「終わらない」音楽です。音楽の進歩が、終わらない方向へのシフトだとすれば、私たちの生活が迎える「終わらなさ」とはどのようなものになるのでしょうか?「工場的原則」に従えば、仕事は定時に終了し、大きなプロジェクトも計画に従って(可能なら勝利を持って)終わるはずです。しかし、それらが終わらないとはどういうことでしょう。

 

テレワークの増加に伴い、長時間労働が増えているという調査結果が様々なから団体から報告されています。例えば、連合の調査においては、通常の勤務よりも長時間労働になることがあったと半数超(51.5%)が回答しています。もちろん、長時間労働の問題は、これまでも言及されてきました。しかし、テレワーク時代の労働は、これまでのそれとは少し異なります。上記の調査において、テレワークのデメリットとして「 勤務時間とそれ以外の時間の区別がつけづらい」という答えが挙げられており、「オンとオフ」の区別の難しさが挙げられています。

ここでオンとオフのオンを楽曲の演奏中、オフを楽曲の終わった後の時間と言い換えてみてはどうでしょう。仕事は明確に明確なオフ(終わり) を見つけることがなく、仕事がエンドレスに続いていくイメージを見てとることは容易です。

ただ、このような無限に続く仕事というイメージを素直に捉えた場合、決して良いものではなく、未来の働き方は相応しくないように思えます。ただし、この働き方は、従来的な働き方とは異なるものです。

ループ型の音楽の典型例であるミニマル・ミュージックの件に話を戻してみましょう。この音楽は、音の小さく、また大きくなるなどの変化はあるものの、劇的な展開は見せません。むしろ、非常に単調で簡単に聞き流せる程度の負担感の少ない音楽です。私たちが、カフェの音楽を聞くことに頭を使って、疲労を感じることはないでしょう。

 

未来の生活が、この音楽の展開をなぞるとするならば、私たちのエンドレスの仕事も、「終わり」を想定してハードにこなす仕事から、延々と続けられる程度のソフトな仕事へとシフトしていると考えられないでしょうか。

先に「プライベートと仕事の区別がつきにくい」という報告がありました。先にプライベートにも仕事が入り込んでいるという内容について言及しましたが、その逆である仕事の時間にもプライベートの諸々が入り混じっており、仕事自体の密度が薄くなっているといえます。このような緩やかになった仕事が、延々と切れ目なくプライベートの時間にも浸食し、私たちは仕事ともプライベートともつかない時間を延々と過ごすことになるでしょう。

このような仕事を延々に続けるならば、その新しい時間の負荷は、私たちが耐えられる程度に抑えられなければなりません。このような持続可能な時間を過ごすことが、「新しい生活様式」の形ではないかと私は推論します。

 

連合の調査においても、まとまった連続時間で働くことを前提とした現行の労働時間規制 は見直していく必要もあると言及しています。テレワークが急速に普及する中で、厳格な時間管理は現実的なのか、ある程度の自律的な働き方を許容することが今後の課題となると述べられています。

もちろん、従来型の時間のメリハリの効いた働き方を継続し、一定の生産性を上げていくのが最も採用しやすいソリューションになるとは思います。これまでの成功体験によって蓄積されたノウハウもあり、何より私たちに肌に馴染んだ生活様式だからです。

ただし、近代的な「工場的原則」に従った働き方を実施するのに、私たちはかなり意識的にならざるを得ません。時間を守ることに対しても、スケジュールに沿って作業を進めることも、努力という一定の精神的な負荷をかけて実施する必要があります。より踏み込んだ言い方をすれば少し無理をしている状態になっているのです。

しかし、もし力まずに自然な流れに任せれば、私たちは仕事プライベートが入り混じった時間を過ごし、その分減ってしまった仕事量を労働時間を伸ばして補う方が、負担感が少ないというという人が一定数いると期待できるでしょう。連合の調査においても、4割の人間が「オンオフが難しい」という不満を持ちながらも、全体を見ればテレワークの継続を望む人は8割を超えます。

このテレワーク社会において、また低成長の時代においては、第九のごとく「期限を切って猛烈に働き勝利を収める」働き方よりも、ミニマル・ミュージックのような「単調だが延々に続けられる」働き方の方が、合っているように思います。

 

6.おわりに

ここまで音楽の内容や形式が、時代の空気を反映する様子について述べてきました。また、同時に音楽は、優れた芸術家の思考によって、今後の時代を予測することもあります。例えば、ストラヴィンスキー春の祭典は、第一次世界大戦を予測したものと言われています。社会のひとつの機能として組み込まれてしまった音楽は、芸術という治外法権を与えられているように見えて、決してその体制からは自由ではありません。内容的にも形式的にも当時の観客が求めるものを表現する必要があります。

ここでは現代音楽の代表例として、ループ構造を特徴とするミニマル・ミュージックを例に出しました。これといった展開を持たず繰り返しだけで淡々と続く音楽が、今の社会自体を表現する、あるいは予測しているとするならば、われわれの社会活動のなかの「終わらなさ」について思考を巡らせてみれば良いのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの流行は、私たちの恐れていた「サドンデス」的な社会の終わりを予感させました。しかし、社会はそこで終わらず、私たちは「新しい生活様式」を今後の社会の継続のために求められています。

さらに、コロナウイルスに対する態度も「ワクチンや新薬開発でコロナに打ち勝つ」という言説がある一方で、「コロナと一緒に共存していこう」というウィズコロナの発想もある程度の説得力を持って語られています。私たちに終末をもたらすはずであったパンデミックでさえも、「延々と続く」という発想のなかに縫い込まれています。

今回は近代的な発想を色濃く残す働き方に対して、「終わらない」という発想をもとに現状と未来を考えていきました。近代の延長ともいえる今日の社会では、未だ「勝利をもって終わる」という発想を強く持った、営みが多く残っていることでしょう。それに対して、「繰り返し」や「終わらなさ」といった価値観を持って、新たな切り口で光を当てれば、新たな社会を切り開く一助になるかもしれません。

 

【参考文献】

岡田暁生『音楽の危機《第九》が歌えなくなった日』中公新書(2020年9月30年)

連合「テレワークに関する調査」https://www.jtuc-rengo.or.jp/info/chousa/data/20200630.pdf(2020年6月30日)